遺跡ギャラリー

No.018 神雄寺跡(馬場南遺跡)

 

神雄寺跡のある幅の狭い谷間から生駒山が遠望できます。
中央平坦面の右手に礼堂、その奥に仏堂があり、これらを取り囲むように流路が流れています。
谷の奥には井戸や建物があり、僧坊や食堂など寺の生活空間があったと考えられます。
流路の斜面には、約5千枚を越える灯明皿が廃棄されていました。
 
名 称

神雄寺跡:かみおでらあと(馬場南遺跡:ばばみなみいせき)

時 代
奈良時代後半
調査年
2008・2009
所在地
京都府木津川市木津
コメント
  神雄寺跡(馬場南遺跡)は、大規模宅地開発の事前調査によって新たに発見された奈良時代の山林寺院跡です。木津川市教育委員会と当調査研究センターとで合計6回の発掘調査が行われました。遺跡は平城京の北東に位置し、平城京から北陸へ向かう幹線道路や恭仁宮へ向かう道の途中に位置しています。
 遺構は丘陵に挟まれた狭い谷の中に礎石建物2棟、掘立柱建物3棟、井戸1基が点在していました。これらの内、礎石建物1棟と掘立柱建物1棟は、建物の中軸を揃えて南北に並んで建てられていました。北側の建物は四天王の塑像が配置された仏堂で、南側の建物は彩釉山水陶器や三彩陶器などが置かれた礼堂と考えられます。
 この2つの建物の北方を水源として、建物の横を南下し、西に屈曲して流れる流路があり、その斜面には5千枚以上の灯明皿が廃棄されていました。その中には「浄」「悔過」と墨書された土器がありました。これらは奈良時代中頃のもので、『続日本紀』に記された聖武天皇の病気平癒を願い諸名山浄処で行われた悔過(けか)のひとつかもしれません。
 また、これらの建物の西方約30mの丘陵斜面には多重塔と考えられる礎石建物があります。1辺が1.8mの小さな建物で、奈良時代後半に建てられたようです。 流路からは「神雄寺」と墨書された奈良時代後半の土器が多数出土しており、かつてこの遺跡内に記録に残っていない未知の寺「神雄寺」があったことがわかりました。
 流路からは、歌が書かれた木簡も出土しました。「阿支波支乃之多波毛美知(あるいは智)(以下欠損)」と墨書されており、「秋萩の下葉もみちぬあらたまの月の経ぬれば風をいたみかも」(『万葉集』巻10、2205番)の歌の一部と考えられます。 歌木簡のほか楽器である須恵器鼓胴やこの時期天皇や有力貴族にしか使わない「大殿」などの墨書土器も出土しました。これらの遺物からは歌会の会場となった有力者の施設であった可能性も考えられます。
 このように、当遺跡は奈良時代の仏教儀礼を解明する手がかりとなる遺跡として評価され、平成27年3月10日付けで神雄寺跡として史跡に指定されました。
備 考
『京都府遺跡調査報告集』第138冊 2010
『神雄寺跡(馬場南遺跡)発掘調査報告』木津川市教育委員会 2014